麻生 弘隆(Hirotaka Aso)
プロフィール-Professional Footballer.Goalkeeper.国内外、数多くのクラブでプレー。海外では、ブラジル、ソロモン諸島(日本人選手初)、リトアニア(日本人ゴールキーパー初)でプレー。昨シーズンは鹿児島ユナイテッドFCセカンドでプレーし、今シーズンからニュージーランドのWaiheke United AFCでプレーしている。

 

体格差や言葉の問題があり、海外でプレーする日本人のゴールキーパー選手は数少ない。

しかし、麻生氏は子供の頃、夢を掲げたのだ。

「マンチェスターユナイテッドのゴールキーパーになる」

 

幼少期から青年時代

テレビゲームが好きでしたがスポーツも好きで、水泳や空手をしていました。

しかし、ある日紫斑が身体中を覆います。

アレルギー性紫斑病。
子供に感染者が多く、難病の一種なため、完治はできない。飽くまで緩和。入院して、車椅子での生活になりました。

アレルギー性紫斑病(アレルギーせいしはんびょう)とは、アレルギー性機序に より血管が障害を受け、四肢末梢の紫斑を主としたさまざまな症状を呈する疾 患である。好発年齢は 4〜7 歳であり、男女差はみられない。 別名として、「ア ナフィラクトイド紫斑病」「血管性紫斑病」「IgA 血管炎」「シェーンライン・ヘ ノッホ紫斑病」(Schönlein-Henoch -)等がある。
(Wikipedia より引用)

 

▶サッカーとの出会いはリハビリだったと麻生氏は話す

病気になって運動が出来なくなりましたがその後、病状が緩和していき、リハビリを始めるようになりました。
リハビリをして体を動かさないと、体の免疫力が落ち、肥満の原因にもなってしまうからだと医師から言われました。

リハビリは本当に辛くて、嫌でした。そこで出会ったのがサッカーです。

ある日、医師から運動をするのであれば、リハビリをしなくてもよいと言われ、周りの友達が入っている地元のサッカー少年団に入りました。
リハビリより、数倍楽しかったです。

 

ゴールキーパーを目指した理由は?

サッカーは楽しかったが、走るのは好きではありませんでした。足も遅かったんです、実は。その中で、ゴールキーパーってポジションは「あまり走らなくていいなぁ」と思っていました。

98年フランスワールドカップアジア最終予選。
日本対UAEの試合。その試合を観てとても感動し、川口能活選手が凄くかっこよかったのを鮮明に覚えています。

丁度その時期に、ゴールキーパーを監督から任されました。理由は、身長が高いからみたい。(笑)

ゴールキーパーは、いなくてはサッカーが成り立たないポジションです。かっこよく言うと、最後の砦。ゴールキーパーというポジションに誇りをもってプレーしました。あの時に、監督から任されていなかったら、今の自分はなかったと思います。

高校を卒業してからは、企業チームに入って日中は仕事をして、仕事が終わった後、サッカーをしたいと考えていました。安定思考且、且つ、堅実志向でした。

しかし、企業チームでプレーすることはありませんでした。

その後、練習生として参加していた地域リーグのクラブと契約することができたんです。

 

現役引退を決意する

▶チームにいざ入ってどうでしたか?

悔しさを感じました。自分がとても下手だと感じました。ほとんどの選手がプロまたはセミプロ契約で、元Jリーガー、元世代別日本代表、元ユニバーシアード日本代表、外国人選手が所属しておりました。チームで活躍する選手のプレーは素晴らしく、足元にも及びませんでした。

チームでは、必死になって毎日の練習に取り組みました。若手ということもあり、自分の意見を主張することはできませんでした。学ぶことばかりでした。基礎から見つめ直し、死に物狂いで練習についていきました。

契約が終わった後、サッカーから距離をおきました。現役引退。これ以上、上のレベルでプレーできる選手ではないと思ったからです。

それからは、パチプロになったり、色々なアルバイトをしました。

 

現役復帰へ

ある日、「大学のサッカー部のコーチをしてほしい」と声をかけられました。
教えるという立場に移り変わりましたが、もう一度サッカーに夢中になることができましたね。

一年間、大学のサッカー部のコーチを務めた後、毎年「選手としてもう一度やらないか?」とセミプロのチームからオファーをいただいており、もう一度選手として現役復帰することにしました。

 

▶その後は?

色々なチームを渡り歩きました。日本人として初めて、ソロモン諸島でプレーもしました。

そして、ラトビアのチームにトライアウトに行くことになりました。

結果、契約はできませんでしたが、そのチームの監督から「リトアニアのチームに行ってみないか?」と言われました。

後のない自分は、リトアニアにすぐに移動し、必死でアピールし、そして、チームと契約することができました。
夢であった「マンチェスターユナイテッドのゴールキーパーになる」という夢は叶えられないかもしれませんが、「ヨーロッパのチームのゴールキーパーになる」ということは叶えられました。

そして今年は、ニュージーランドでプレーをしました。

今後について

▶今後は?

まだ、わかりません。
目の病気や日常生活でも痛みのでる手首の怪我などがあるので、サッカーを続けられるかもわかりません。

もしも、サッカーができなくなっても、やりたいことは沢山あります。現在も、シーズンオフなどにセクシー女優さんとイベントをしたり、アニメのラジオに出演したりしております。

「誰もやってない」ことをやりたい。

サッカー選手であり、エンターテイナーになりたい。そして、ナンバーワンではなくオンリーワンでありたいと思います。

 

▶最後に読者へ。

もしかしたら、子供の頃の夢は叶わないかもしれません。しかし、その夢に近づくことはできると思います。
一歩踏み出そう。そして、夢に向かって行動しよう。

 

麻生弘隆Instagram: @hiro.15_official

 

夢を実現する上で「行動し続ける」ことは、
夢への必要条件かも知れない。

麻生氏は歩き続ける。自分の可能性を信じて。

【インタビュー&執筆:そんし】