稲垣さん仮原稿

3月。

新年度を控え、人生の転機を迎える季節。

今回登場するのは、
東海社会人サッカーリーグ2部『ヴィアティン三重』代表取締役後藤大介さんのご紹介。

三重県議会議員の稲垣昭義議員だ。

銀行員としての職を辞し、26歳で挑戦した議員への道。
しかし、落選。

『僕にとってはそれがチャンスだった。』

逆境を必ずモノにしてきた稲垣さんに聞く、挑戦の必要性。

理想論だけで終わるのは嫌だった。

―政治に関心を持ったのは高校3年生の時。

「高校のとき、湾岸戦争が起こって。戦争の映像をテレビで見たとき、初めて戦争を身近に感じた。日本も戦争と無縁ではないなと。事実、日本が自衛隊を派遣するのかどうか、揉めているのがテレビで流れていて。」

―その漠然とした政治への興味は大学進学に影響を与えた。

「物事を決める場所があるとすれば、自分もその場所にいたい。漠然と東京へ行った。東京では、現在のインターンシップのような形で国会議員や都議会議員が大学生の受け入れをしていて。その繋がりを持っていた政治サークルに入り、議員さんのもとで仕事を経験し、視野の広がりと政治の大事さを感じた。」

―ただ、関心を持つことと仕事にすることには違いがあった。稲垣はまず大学卒業後、地元三重で、銀行員として働く道を選ぶ。

「いざ政治家になろうと思っても、就職活動があるわけでもなく、なにもない人間がいきなり選挙に当選するのは難しい。親が政治家でもない、なにかの組織に属したこともない人間がいきなり選挙で通る風潮はなかった。だったら、働こうと。」

―1度先送りした政治家としての道。ただ、諦めるつもりは毛頭なかった。

「なんでそっからもう1度政治家を目指そうと思ったのか。人生は1回しかないなかで、『もし俺が議員になっていたら』と想いやうんちくだけを話しながら終わっていくことは嫌だと。一度挑戦することで、『俺も1回選挙に挑戦してダメやった』って言える方がええかなって。それならば若いうちに挑戦しようと。」

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人の繋がりを大事に楽しむ。

―当時の経験はその後の政治活動に影響を与える。稲垣さんが卒業を控えた大学4年次の話だ。いくつかの議員のもとで経験を積んだ稲垣は当時、新進党の議員であった北川正恭議員のもとにいた。1995年、北川氏は議員辞職し、三重県知事選に出馬する。

「出馬直後、北川さんは劣勢と見られていた。僕は北川さんに三重県南部地域でのポスティングを頼まれて、当時所属していた大学のラグビー部の後輩を三重に呼び、アパートを借りて、2週間住み込みで、彼のお手伝いをした。」

―これまでよりも大きな信頼を北川氏から感じたと言う。

「北川さんのときは任せられる感覚というか、自分で考えて人を集めて、行動を起こしていくのがイベント感覚で楽しかったのよ。その感覚は今でも変わってなくて、26歳で出馬したときと、42歳の今。人の繋がりを大事に楽しむ姿勢が今に生きている。」

―出馬直後、劣勢と見られた北川氏は、当時、与党であった自民党の公認候補を破り、見事三重県知事の当選。間近でその逆転劇を支え、目の当たりにした稲垣はそのエネルギーを感じ、銀行員として就職後も共に働く未来を夢見た。

「必死に選挙に関われば、リーダーは変わるということ。そして彼が知事になったあと、僕は銀行員として働くなかで、彼が公言していた改革が進み、三重県がメディアで取り上げられていく。彼がトップであれば自分も県議会で一緒に働きたいと。」

―大学時代に身をもって感じた、動いて得るものの大きさ。その後、稲垣は銀行員の職を辞め、26歳で三重県議会選挙に出馬する。しかし、物事は上手く進まない。稲垣は落選。4年後の選挙に備えることになる。

「同じように銀行を辞めて26歳で出馬する子がいたら止める。普通なら絶対当選するわけがない。だけど、僕にとってはそれがチャンスだった。4年後、30歳で当選したけど、今、思えばあの4年間は試練の場を与えてくれる大きなチャンスだった。」

―事実、落選から当選までの4年間は市民と結びつき、行動を起こす充実した4年となった。

「フリーマーケットに祭や花火大会。一度選挙に出馬し、落選し、次に出る意志もある僕が一緒にやろうと声をかけても温かく受け入れてくれて。『選挙目的でやっている』という声もあったけど、『そんなん関係なく一緒にやろう』と言ってくれる人たちにたくさん出逢えて。」

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与えられた立場が自分を形作る。

―1つ1つの結びつきをもとに行動を起こしてきた。そんな稲垣の姿勢はこんな些細な面からも伺える。

「同窓会や周りから誘ってもらえるものはなんとかして行く。銀行の同期の集まりも行くようにね。もちろん落選し、4年間浪人していたときは行きたくなかった。もし議員を目指していなければ同じような生活が送れたのではないかと思うこともあった。でもそれでよかった。」

―これまで話を聞き続けてきた私は、この言葉に対し、一瞬、返答が遅れた。「もしあのときこうしていれば。」そんな後悔をしてしまう場へ自分を置くこと。その行為を良かったと振り返られるのはなぜなのか。

「行き続けること。やると決めたらずっとやり続けること。今、県議会議員になって12年が経ち、1期目の4年、2期目の4年、そして3期目。人の繋がりを重ねていくうちに、知り合いや県庁との接点は増え、任せてもらえる仕事が多様になり、自分の仕事がやりやすくなっていく。」

「なんでもチャレンジすること。もちろん失敗することはある。だからこそ得ることが大きい。そうして与えられた立場が自分を形作り、継続していくことでステップアップしていく。向上心を持ち、自ら率先していく意識。その積み重ねが出来ることを増やしていく。」

―1つ1つの積み重ね。12年、三重県議会議員として、率先して三重県の条例作りに励んできた稲垣。議会人としてのスタンスに加えて、政治家として今、力を入れるのが彼の地元、三重県四日市市の活性化だ。

「商店街でも少しずつ若者に活気が出てきた。ただ飲食店が多い。出店しやすいメリットがある一方、入れ替わりが激しく、限界もある。だから街が活性化するためには、若い人が多様な仕事を経験できる仕組みや起業の支援を整える必要がある。」

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本気の人間で、賑わいを。

―何だか分からないが働きやすく、若者で賑わう街。そんな街に必要になるものは、市民が共に盛り上がる共通項。市民が共に一喜一憂できる機会、稲垣が目をつけたのはスポーツだった。

「市民共通のみんなでわっと熱くなるもの。オリンピックのように勝ったら盛り上がり、負けたら落ち込むような街ぐるみで得られる一体感を与えるスポーツは非常に良いなと。」

―そして、稲垣は運命的な出逢いを果たす。以前この『繋がリアン』にも登場した『ヴィアティン三重』の後藤代表だ。

「これも出逢いで、3年前、三重でJリーグチームを作りたいと話す変わった人と出逢って。後藤代表とやろうとしているのは、ヴィアティン三重を毎週1回試合の度に街中で応援するようなチームにしようと。」

―決して夢物語ではない。県リーグに加盟したヴィアティン三重は、東海リーグまで毎シーズンごとに昇格し、現在東海社会人サッカーリーグ2部。去年は天皇杯三重県代表として、J1チームと善戦。紛れもなく近づいているのだ。

「後藤さんの役割は強いチームを作り、勝ち上がること。そして僕らの役割はそのチームを応援するメンバーを作っていくことであり、ちゃんとしたスタジアムを政治家として整えること。そして街が盛り上がるために、市民が共通の夢を持てるように仕事のしやすい環境を整えること。」

「Jリーグ入りはとてもハードルが高いもの。だけど出来る気がするんよ。それはやりがいにもなる。本気の人間が集まって、賑わいを生み出す。夢に向かって1歩ずつ近づいている。」

―タイミングも良い。平成33年に三重県は国体を控え、スポーツを契機に新しい流れができるチャンスを迎える。そう、稲垣がこれまでに必ずモノにしてきたチャンスだ。

「伊勢神宮の遷宮があって、東京に三重テラスもオープンした。知事が鈴木英敬知事になり、三重県を元気にするために先頭を切るリーダーもいる。三重県が注目されることが増えるなかで、33年の国体をきっかけにスポーツを通じて三重県がまた熱くなる。」

―年齢を重ね、目指す未来が現実味を帯びてきた。だからこそ、今を丁寧に。

「年齢を重ねて、チャンスの数は減る。逃さないように。見落とさないように、アンテナを張って。ようやく繋がりのなかから条例づくりやJリーグを目指すチームを応援することができるようになってきた。1つずつ形にしてきた、そして今後も1つずつちゃんとね。」

いながきさん

ふとしたタイミングでやってくるチャンス。
掴むことも、掴み損ねることもあるだろう。

大事なのは、その後。
生まれた接点をどのように息吹かせていくのか。

新しい季節を迎えて。
それぞれの挑戦がまた始まります。

【文章:江口 春斗】
【写真提供:稲垣 昭義】