田中源八1

田中源八にとっての「現」。

僕にとっての表現するかたちはコミュニケーションでしかない。
表現することは生きている姿を見てもらうこと。
今、俺は病院実習に行ってるんだけど、例えば、2人の病院実習生がいるとする。

1人は笑顔で毎日幸せそう。もう1人はなんだかしんどそう。

患者にとって話しやすいのはどちらか。
同じ病院実習でも、人によって捉え方も感じ方も違う。
身体でも、背中でも、自分の姿をみんなに魅せていくこと。
それはコミュニケーションで表れてくるものだと思う。

―世界一周はコミュニケーションを探るためのものだった?

世界一周をやった理由は3つ。
1つはうちの父親の教えが人を殺すな、俺より先に死ぬな、覚せい剤をするな。
それ以外なんでもしろという教訓のもと、一度きりの人生なんだからというベースで俺は生きてきた。
一度きりの人生、いろんな世界と、文化と、人と、景色と、出会いたかった。

もう1つは大学2年生から4年生までカフェ&バー「O+」を仲間と経営した。
当時、大学生がバーをするという想像が高校を卒業したばかりの俺はできなかった。
勝手に自分のなかの可能性を消して、もっといろんなことができるのにできないという壁を作っていた。
できることはいっぱいある。小学校から自分のなかで医者になりたいと夢を持ち続けて、
自分のなかで医者という選択肢にしか乗っかってこなかった。

「もっとお前の可能性広がるんじゃないの?」

その可能性とやらを世界一周で発見できるかもしれない。そう考えた。

最後。俺は医者になる。あと2年間で研修医になる。
なっちゃうけど、知識もない、スキルもない、時間もない。
そんななかで、「田中源八。お前はどんな苦しいときも振り向いたときに笑顔を送れる人になれるか。」

自分に問うたとき、まだそこまでの余裕はなかった。
言葉で取り繕うことはいくらでもできる。言葉は一つのツールでしかない。

結局、コミュニケーションのなかで大切なのは表情であり、その人から出る空気感を感じ取ること。
その人が「大丈夫」と言っていても、大丈夫じゃない精神状態でいるときもある。

そんな状態でお互いの感情を共有していくために時間を取る。
そしてさまざまな経験を積むなかで、いろんなトラブルに対しての回避能力を身につける必要があった。

―世界一周をしてその3つはどうなりましたか?

日本においてこれをしたらこういうトラブルが起きる。これをしたら安牌だ。その感覚は身体に染みついてる。
日本の文化だから、日本では本能として分かる。だけど、海外には予期せぬ出来事があり、自分の常識で収まらん出来事がある。
それは病院でも同じこと。
普段、生きてる。だけど健康状態では生きてない、アブノーマルな人。それは病院内であればいっぱいいる。
だけど、普段生きてるなかで接していくことが一番難しい。
海外に行くことが病院に関連するかどうかは分からないけれど、人としての行動には活きてくる。

源八さん2.1

越えるか、越えないか。越えた自分をできるか。

―インドやベトナム、その他の地域でもたくさんのトラブルに遭った。
振り返ると、トラブルに対する想いが変わっていったと言う。

トラブルは結局、自分が招くもの。トラブルに遭う人と遭わない人の違い。遭うときと遭わないとき。
俺はトラブルに遭う人間だ。でも、トラブルに遭わないようにする術も知っている。

だけど、遭いたいときに遭うべくしてトラブルに遭っている。

例えば、同じインドでも5つ星ホテルに宿泊し、厳重な警備のなか、車で移動するような滞在。
かたや、なんもなし。ヒッチハイク、インド人と過ごし、インド人の家に泊まり、インドの夜の街に出歩く。
トラブルに遭うであろうところに行けば、トラブルと呼ばれる出来事が起こる。だけど、遭わなければいけないトラブルがある。
荷物を全部盗まれることは今の俺にとってはなんでもないことだけど、当時の自分にとってはすごくでかい出来事だった。
なんなら世界一周をする前から、もっと前の状況からその都度都度、
自分に越えられる壁、死なない限り越えられる壁というものは与えられてきた。

だけど、そこで違いが生まれる。
ある人は挫折をし、旅を止める。ある人はその苦難を乗り越え、また旅をする。
それは旅ではなくても人生でも一緒だ。頑張ったら越えられるもの。

それを越えるか越えないか。越えた自分を想像できるかどうかなんだ。

―越えるしかないと。

俺には働くと決めている沖縄の病院がある。そこは2年次のときに宮古島に1人で行かなければいけない。
1人で何百人、何千人、何万人という人を診なければいけない。
自分がやったことのない診療もしなければいけない。電話対応、本部との連絡。
お前しかいない、やるしかない。できないと思えば、できない。だけど、やるしかない。
もちろんそれは、簡単なことじゃない。
だけど、責任感のある人たちが仕事を覚えていく。
そんな医者がこれから先、もっと患者さんを救っていく。俺はそんな医者でありたい。

友達、うちの母親と犬の散歩をしていたとき。

源八さん7

―医者になりたいと思ったのはいつ頃から?

 小学校5年生の終わり。
友達の、のぶりんとうちの母親と愛犬の小鉄と犬の散歩をしていたときだった。
公園の階段を上がったとき、雷が鳴った。そのとき、僕は心に決め、言った。

「僕は医者になる。」

うちの母親が振り向いて言った。

「あんた、何言ってんの。」、「医者って難しいの知ってる?」
「医学部行かなあかんで。」、「入るの難しいよ。」
「中学からちゃんとしたとこ行かなあかんで。」
ほんで、中高一貫の学校に入った。

小学校5年時ぐらいまで水泳を続けてきたけど空手に変更。
やり始めて1年ぐらいで優勝したけど、中学入ったときはバスケバスケバスケ。
あるときはパイロットになりたいなって。
もうぶれぶれ。
気づいたら高校に入る前、俺の成績は中学で最下位になっていた。

―勉強し始めるきっかけがあったんですか?

なんとか高校に進んで、高校2年生のとき。
うちの高校は進学校やったから賢いクラスとアホなクラスに分かれていた。
俺はアホの方。賢いクラスから落ちてきた奴がいた。
そいつは今、九州の私学にいてDJしてて、バーもやってて、プロカメラマンとして働いてる奴で。
そいつは高校の時から、めっちゃ勉強もしてるのに、遊んでもいるかっこいい奴で。
影響されて自分も勉強するようになってきた。
そうしたら最終学年の時にはクラスでトップに。

だけど、受験を控えた11月。3年付き合ってた彼女と別れた。
精神状態ボロボロで入試なんて考えられなくて、落ちた。

―浪人時代の印象的な出来事はなんですか?

1浪目は受験生なのに、先輩方と遊んでばっかり。先輩方が受験を終え、大学に進み、自分は2浪目。
そこで、出逢った先生の影響が大きかった。
毎日のように「おまえら来るな」、「教科書捨てろ」、「帰れ」、「俺の目の前から失せろ」と罵倒の嵐。

だけど、1浪の経験上、この言葉の1つ1つは愛の裏返し、敢えて、言ってるんだろうと感じた。
やっぱり授業終わった後、質問しに行ったらすっごい丁寧に対応して、解けると誉めてくれてね。

―そんな先生が最後の授業で伝えたことが大きかったと言う。

「君たちはこれから日本を背負って世界を変える人間だ」

「君たちには大学でモラトリアムが与えられる。その期間をいかにして生きるか。
僕は大学で勉強をしていたとき、アフリカに6か月行った。老若男女が1人1人死んでいく現状を見た。
日本では信じられないような光景がアフリカでは当たり前のように行われていた。
僕たち先進国っていうところで生きている人間はそういう現実を知る義務がある。
男の子は殺されるかもしれない。
女の子は売りに出される、レイプをされる。もちろん殺されるかもしれない。
その事実を知る。それが僕たちの義務だ。
そして、どういった形でもいいから。君たちには人のためになる人間になってもらいたい。」

 

―その言葉の影響は大きかった?

まず医者になる、そして人のために生きる。そのために海外に出る。
そのきっかけを作ったのは先生。だから1年生から海外に出ていった。
そしてカフェ&バー「O+」を運営するなかで自分の可能性を感じた。
もっといろんなこと出来るんじゃないか。時に自分の医者以外の可能性もあるのかもしれないと悩みもして。

源八さん6

―「世界を見た経験が悩みの種にも繋がった」と話す。

人のためになる人間。俺は今、医学部で医者になって人のためになろうとしている。
だけど、俺が行ってきた国では医者よりも求められている職業があるということを知った。
人間に一番求められているのは一次産業。水であったりね。
目の前で、今日1日ご飯を食べられるか。水も呑めるか。そういう次元で生きている人たち。

医者は結局、サービス業であったり、壊れたものを直す工事のようなもの。
自分が医者、人のためになる職業に就こうとしたとき、もっと人のためになる仕事ってあるんじゃないのって。

―だけど、医者になるんですね。

ベースにあるのは人のためであること。
一番最初に3つの目的を話した。実はその3つの目的は複雑に絡み合いながらできている。
最終的に旅をして帰ってきて、医者としてやるべきことが見えた。そこから医者として枝葉からできる。
一次産業もしたいし、教育もしたい。
だけど医者として。俺は医者になる。

三重になにかをする基盤はなかった。全てはつながり。

O+

―浪人を終え、大学に入ってからはどうでした?

1年生の時は学生経営のBar「BAZOOKA」で働いたり、旅をした。
2年生はカフェ&バー「O+」を友達と運営して。
3年生はそれを続けながら、そのとき自分がハマってた流木アートを作ってた。
あとは、イベントのオーガナイザーとして、クラブイベントを開いてた。

浪人時代に医学生が主催する1300人規模のダンスパーティに参加したとき、
「大学生こんなことできるの?」って驚いて、三重に希望を持って来たらそんな基盤一切なかった。

だから、1年生の時はクラブに通い詰めて、DJさんと仲良くなって、一緒に呑みに行って。
そこから2年間下積みを積んで、3年目。
お前のためなら無料でイベントするよっていろんな人から言ってもらえた。

O+2

一生切れないがり。

―もともと「つながり」を大切にする方だったんですか?

2年生のときに運営してたカフェ&バー「O+」のコンセプト。それがつながりだった。
俺らが1年生で入った時、医学部はむちゃくちゃ仲が良かった。だから「O+」もできた。
1年生から6年生まで仲がいい。だけど、それは医学部だけの仲だった。

「じゃあ医学部から全学まで広げましょう。」

って言って、昔、三重大学の全学部で呑み会をした。大学は繋がった。
じゃあ今度は大学を越えて、社会との繋がりを作りましょうと。
そしてカフェ&バー「O+」を開いた。
そのなかで分かってきたのは、
外のつながりを求めるのであれば、内のつながりが強くないといけないこと。

俺は最初から外向けの繋がりをメインに動いてきた。
だけど、外を求めるうちに、内のつながりがものすごく強くなっていった。
俺らは最終的に良かったと思ったのは一生切れない内の繋がりができたこと。それが一番大きかった。

源八さん1

―「今、肌黒いんやけどね。」と言って、こんな話もしてくれた。

この前三重大の医学部生100人ぐらいでバーベキューしたのよ。そういう形でつながりも作って。
忘れられた昔の良い伝統とかも、あとは自分が楽しんで生きている姿を、
後輩に伝えられたらいいなって。普通に生きてるだけなんやけどね。(笑)

―後輩に伝える際、気をつけていることはありますか?

こうしろっていうのは言わない。
自分が楽しめなかったら人は楽しめへん。
中が繋がってへんかったら、外とも繋がれへん。
余裕がなかったら人も助けられない。そんな意図も込めて。

意外と、自分にあるものを無視して、人を見ちゃう人が多くてね。
もっと大切なことは自分のなかにあると思うのよ。

イベントするときは楽しむっていうのがベース。
それがイベント業務に縛られて、イベント当日になったら自分笑えてないときがある。
それはどうなのって。
バーでも一緒。
バーカウンターで、むすっと笑ってないバーテンダーがいたとき、目の前のお客さんが笑えるか。

モラトリアム。

―そのために自分を楽しみ続けると。

目の前の人が笑うために自分が笑う。そのために俺は楽しんで生きる。
目の前の人を笑わせる、そのために僕は笑顔でないといけない。だから自分が楽しむ方法を考える。
それが目の前の人を楽しませる一番大事な選択肢であり、最善の方法だから。そうやって僕は生きてきた。

―残りの大学生活はどんな感じでいきます?

まあ残りの5,6年生、モラトリアム期間をどう過ごすかって言われたら、変わらない。
やりたいことやって生きるだけやから楽しんで生きる。ただそれだけ。一生モラトリアムやね。

田中源八さん表紙2

1から2へ。
経験を踏まえた先へ。
0から1へ。
未体験から未知の世界との闘いへ。

医療において、
数々の未体験とぶつかっていく田中さん。

数々の経験を積み重ねた彼が
今もなお、闘い続ける問い。

「どんな苦しいときも、笑顔を送れる人になれるか。」

【写真:矢野杏奈】
【一部写真提供:田中源八】
【文章:江口春斗】