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「飛行機のレース」 こう聞いて、あなたはどんな景色を想像するだろうか。

 

リノ・エアレース。 世界で唯一行われる飛行機のレースが毎年アメリカのネバダ州、リノで行われている。

 

 30年前、このリノ・エアレースに魅せられ、海を渡った“サムライ”がいた。

夢を追い、たった1人でアメリカという未知の世界に足を踏み入れた青年の名は、比嘉実(ひがみのる)。

 

それから30年経った現在、“トニー比嘉”の愛称で親しまれる彼は、愛機“タンゴタンゴ”と共に、

現在リノ・エアレースに出場する唯一の日本人として、リノの空を舞っている。

 

 

■ Fly low, Fly fast, Turn left!

 

飛行機のレース。それは、“世界最速のモータースポーツ”も同時に意味する。そんな世界一のスピードを競うイベントが、毎年9月にアメリカのネバダ州にある地方都市、リノで行われている。その名も「リノ・エアレース」。1964年に始まり、今年で開催50周年を迎えたこのエアレースは、現在最も長い歴史を誇る、伝統的な航空イベントである。

エアレース、つまり飛行機のレースとは、“地上で”車やバイクが行うようなレースを、“空中で”飛行機でやってしまおうというもの。リノ・エアレースでは、地表に置かれた高さ15mのパイロンという、電柱のようなものを目印とした、楕円形のコースを周回する。

 

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上から見たコースの図。部門によってコースの距離は異なる。黒い丸が、目印であるパイロン。(リノ・エアレース公式HPより)

 

現在、存在する6つの部門のうち、比嘉さんが参戦しているのはバイプレーンクラスという部門。バイプレーンとは日本語で複葉機、つまり主翼が2枚ある飛行機のこと。全長約5mほどの、この決して大きいとは言えない飛行機8機がリノの大空でひしめき合い、デッドヒートを繰り広げる。小さくて可愛らしい見た目も人気の理由のひとつだが、この飛行機の操縦は見た目よりも、遥かに難しいのだという。

 

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2007年、レース開始直後の様子。真ん中の白い機体が比嘉さんの愛機、タンゴタンゴ。

 

「まず上下に翼があることによって、視界が限られています。前はほとんど見えません。小さな視界の中で繊細な操縦技術が要求される、それがバイプレーンレースです。

レース中に抜いたり抜かれたりする場面では、数メートルまで近寄ります。非常に限られた空間での操縦となりますが、相手の顔も表情もよくわかります。僕は満面の笑みを相手に見せながら抜いていきますよ(笑)。

 

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パイロンに近づくタンゴタンゴ。赤と白の、電柱のようなものがパイロン

 

レースの基本的な醍醐味は、”Fly low, Fly fast, Turn left”、つまり“低く飛び、速く飛び、左へ旋回”。これはリノ・エアレースのスローガンでもあります。要するに速く飛ぶためには、低くタイトに、コース上の目印であるパイロンを攻める必要があるわけですね。しかし、パイロンの高さ15mを切るとDQ(disqualified、反則)とされ、危険行為と見なされてしまいます。僕は常に、そのギリギリのラインを狙って飛んでいます。」

 

低くタイトにパイロンを攻める、ギリギリかつ無駄のない美しいレースを追求する比嘉さんの姿は、多くの人から好評価を得ているのだという。同じ日本人として、筆者は誇らしく思った。

 

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2006年、パイロンをかすめるように飛ぶ、タンゴタンゴ。

 

そんな比嘉さんがリノ・エアレースを初めて目にしたのは1979年、20歳のときだった。

 

「存在は中学生のときから知っていて、いつか観に行きたいと思っていました。いざ行ったら、そのスケールに圧倒されましたね。リノの空で繰り広げられる、空中でのデッドヒートに、心を奪われました。『こんな世界もあるんだ!』って。アメリカはすごいなぁと思いましたね。

その時、『俺もいいパイロットになり、このレースに出たい』と、思ったんです。ただそれだけでした。これは理屈じゃなくて、肌で感じるものなんです。広い飛行機の世界の中で、『これが、俺の飛行機の世界だ。』と見つけた瞬間でした。」

 

■ 飛行機を、“作る”?!

 

リノで11回のレースを共にした愛機の名は、“Tango Tango”(タンゴタンゴ)。このタンゴタンゴというのは愛称であって、この飛行機自体の機種としての名前はPitts(ピッツ)という。つまりピッツという名で世の中に出回る飛行機に、比嘉さんがタンゴタンゴという名前をつけたというわけだ。

若き日のトニー比嘉は、どのようにして、相棒タンゴタンゴと出会ったのだろうか。

 

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「沖縄県出身ということで、民間・軍用問わず、様々な飛行機を見る機会が多い環境に育ちました。だから、小さい頃から飛行機が大好きだったんです。飛行機の雑誌でエアロバティックの存在を知り、パイロットに憧れを抱くようになりました。」

 

エアロバティック(aerobatics)は、aero(空中の)という語とacrobatics(アクロバット)という語から作られた表現である。曲技飛行や、アクロバット飛行とも言う。飛行機で宙返りをしたり、背面飛行をしたり、通常では考えられない飛び方をする。空中でのフィギュアスケート、といったところだろうか。

こうしてエアロバティックに魅了された比嘉さんは、飛行機大好き少年として成長する。

 

「航空整備士専門学校を卒業したのち、飛行機の整備士として、沖縄の小型機航空会社に就職しました。しかし、上司と馬が合わず、就職から2年でその職場を去ることになります。

職を失った僕は、アメリカに行くことを決心しました。パイロットという夢を諦めきれず、この夢は日本では叶わないと思ったからです。

渡米してすぐに、パイロットの資格を取得しました。そして、ピッツでエアロバティックのトレーニングをしていくうちに、徐々に自分の飛行機が欲しいと思うようになったんです。完成した機体は買えないけれど、部品や材料を買って自分で造りあげる“プロジェクト”なら買えると思い、プロジェクトを探し始めました。自分の飛行機を自分で造り上げたいという思いもありましたね。」

 

そう、実はこの飛行機は比嘉さんが自らの手で、18年間かけて造り上げたものなのだ。

筆者はこの事実に大きく驚いた。飛行機を作る?一体どういうことだろうか。例えば自動車を作る、と言われても、あまりピンと来ない方が多いと思う。ましてや、空を飛ぶ飛行機を1人で作るなんて、想像すらできない。

こうして1986年、比嘉さんが自らの手でピッツを造り上げるという、“Tango Tangoプロジェクト”が幕を開けるのだ。

 

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製作途中のタンゴタンゴ。本当に一から造り上げるのだ。(トニー比嘉公式HPより)

 

「当時は、日本にいた頃と同じように整備士として働きながら、夜は深夜まで日本食レストランで働いていました。空いた時間でピッツを組み立て、睡眠時間は毎日3,4時間程度でしたね。

このような忙しい日々の中に、たくさんの辛いことも経験しました。一人で泣いたこともありました。そんなとき、このプロジェクトはアメリカでひとりぼっちの僕の心の支えとなってくれたんです。自分の心の支えとして、ピッツのプロジェクトを無理してでも購入したことは、正しい選択でした。どんなときでも、ピッツはいつでも傍にいてくれましたから。

プロジェクトの購入から18年後の2003年、ついにピッツが完成します。その感動は、それまでの苦労とは、比べ物になりませんでした。『ついに、俺のピッツを手に入れたぞ!』って。」

 

■  Pittsという飛行機

 

この飛行機はレースだけでなく、エアロバティックもこなすことができる。これは、比嘉さんがピッツを選んだ大きな理由の一つ。ピッツは今でこそ世界のトップクラスのエアロバティックの世界から退いたが、1970年代にはトップアクロバティック機として名を馳せていた。現在はトップクラス並の演技をすることは難しいものの、その優れた性能は今も高く評価されており、今もなお現役のアクロバット機として活躍している。

そして比嘉さんは1996年、このピッツでエアロバティック世界選手権に出場している。これは日本人初というだけでなく、アジア人としても初の出場であった。

 

31996年、日本人初そしてアジア人初として、エアロバティック世界選手権に出場。(トニー比嘉公式HPより)

 

「エアロバティックをしてお客さんを喜ばせることは、僕の夢の一つでした。でも周りの人には、選手権への参加は無謀だと言われましたね。まず、当時ピッツはエアロバティックをやるにはあまり性能が良いとはいえませんでした。それに僕の飛行時間は、1000時間を超えるトップチームに比べて、50時間しかなかったのです。とても他のチームと対等に戦える状況ではなく、安全に飛びきれるかも危ぶまれるくらいでしたね。でも、自分にはできるはずだと信じていました。

大会まで、できることは全てやりました。飛行機に乗っている時間以外も、寝ている時にも手足を動かして、ずっと頭の中で飛んでいましたね。結果は79人中78位。でも安全に飛ぶという僕の目標は達成できたし、エアロバティックス世界選手権に”参加する”という夢が叶ったんです。その達成感に、大きな喜びに包まれました。」

 

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東日本大震災が起きた2011年、主翼には大きく「がんばろう!日本」の文字が。

 

こうしてピッツに乗ってレースをし、さらにエアロバティックもこなす姿は、比嘉さんの生き方を表していた。

 

「ピッツは、“じゃじゃ馬”のような飛行機です。まず可愛らしい見た目に似合わず、操縦がとても難しいんですね。しかし、この飛行機は上手く操縦すれば、パイロットの意のままに、自由に飛ばすことができます。だからこそ、アクロバット機としてエアロバティックをするだけでなく、その運動性とスピードを生かして、レースにも出場することができるんです。今となっては機体が自分にフィットしてくるのを感じますが、最初の頃はとても手に負えないと感じたこともありました(笑)。

僕は、旅客機と一緒に豊富な資金がもらえるとしても、ピッツに乗るでしょう。たとえお金がなくても、僕は間違いなくピッツを選びます。旅客機でまっすぐ飛んで着陸するより、レースもエアロバティックもできるピッツの方が、僕には魅力的に感じるからです。

それは僕の生き方でもあります。旅客機を決められた時間に決められた場所に飛ばすだけでは、僕には物足りないんです。たとえお金がなくても、好きなようにレースをして、エアロバティックをしたいんです。僕は自由に飛び、そして自由に生きたいんです。」

 

“自由に飛び、自由に生きたい”。この生き方にふさわしい飛行機は、レースもエアロバティックも両方こなす、“じゃじゃ馬”ピッツ以外にはないだろう。

 

■ 夢への挑戦は、終わらない

 

単身でアメリカに渡り、自分の飛行機を造り上げ、エアロバティック選手権、そしてリノ・エアレースへの出場を果たした比嘉さん。数々の試練を乗り越え、夢を叶えてきたが、夢への挑戦はまだまだ終わらない。現在55歳の比嘉さんは、今後何を見据えているのだろうか。

 

「これからはレースだけじゃなくて、エアショーでエアロバティックを披露したいです。実はもう夢に向けてのチャレンジは始まっていますよ!皆さんに僕の演技を見せられる日は刻々と近づいてきています。ひとつ夢が叶うとまたひとつ夢が増えるんですよ!こうして、僕は常に夢を追っているんです。」

 

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ピッツとともに夢を追い続ける比嘉さんには、大事にしていることがあるという。それは、“リスペクト”の心。

 

「僕の乗るピッツは小さくて可愛らしい、とよく言われます。確かにそうかもしれませんね。だからといって、決して操縦が簡単だというわけではないのです。相手は飛行機です。侮るような気持ちで乗ったら墜落して、命を落とすことももちろんあります。大切なことは、どんな飛行機に対しても真摯に誠実に向き合うことです。これが、“リスペクト”の心です。」

 

■ チャレンジ精神の裏に隠された特技

 

何事にも謙虚に誠実に、この精神が比嘉さんを夢へと突き動かしてきた。しかし、この常にチャレンジし続ける姿勢は、誰もが持てるものではない。そこには、比嘉さんのちょっとした特技が、隠されていた。

 

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「人生には大きな幸せがいくつかありますが、その間には、必ず小さな幸せがあります。それが喜びに繋がります。僕はきっと、その小さな幸せをみつけるのが人より得意なのかもしれません。もしくはそれが僕の才能なのかも。

大きな幸せにたどり着くまでがどんなに苦しくても、小さな幸せがあるから頑張れるし、チャレンジし続けることができます。僕の周りだと、例えばエアロバティックの新しい技ができた時とか、レースでタイムが伸びたときとか。そのたびに、『夢にまた少し近づいたぞ!』と感じます。努力し続けたあとの達成感が、いつも僕を突き動かしているんです。

あとはやっぱり、僕は飛ぶことが大好きなんです!楽しいことはやめられませんよ!(笑)子供のころから憧れていたピッツで世界選手権にも出て、自分のピッツも作り、それでリノ・エアレースにも出て、アクロバットも楽しみ、それを観客に披露して喜ばれるショーパイロットに向かっていることが、本当に嬉しいです。これからの新しい僕の姿を、応援してくれている皆さんに見せるのが楽しみですね!」

 

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きらきらした目で夢を語る比嘉さんは、まるで少年のようだった。かつて本当の少年だった比嘉さんが初めて飛行機を見て、大空に想いを馳せた瞬間からは長い時間が経っている。しかし、大空への憧れ、そして常に夢を追い続ける姿勢は変わってはいないのだと、私は強く感じた。

小さな幸せは、もちろん私たちの周りにもあふれている。ちょっとした“いいこと”を「幸せ!」と感じられるようになれば、その先には必ず、大きな幸せが待っているのだ。

 

 

トニー比嘉の挑戦はまだまだ終わらない。

アメリカの広く果てしない空のように、彼の夢も尽きることはないのだ。

 今日もトニー比嘉は、アメリカの空を舞っている。

 

トニー比嘉公式HP : http://tonyhiga.com/

 

 

【文…山下紗代子、写真…神谷直彦】