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正門をくぐり抜けゆるい左カーブを進むと、暖かい西日を全身に浴びた。

一橋大学国立(くにたち)キャンパス。

待ち合わせ場所の小さな池の周りには、友人と談笑する学生、読書を楽しむ人、無邪気に遊びまわる子供たちなど思い思いの光景が広がる。

4年目になるこのキャンパス。見慣れた景色だが、改めて一橋らしい落ち着きを感じた。そして、これからも未来永劫続いてほしいと思った(週2しか来てないけど)。

 

そんなどうでもいいことを考えているとラシカさんは現れた。

陽が落ちてしまっては写真が撮れなくなるため、インタビュー前に写真撮影を行うことに。名前も分からない銅像などと合わせて、小さな花とも一緒に撮った。

 

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「一橋ってほんと自然に溢れてるよね」

そう彼女は笑う。

「東京の大学=都心の大学」という方程式を期待してマレーシアから一橋の門を叩いた彼女の希望を見事に崩したこの自然も、4年生になったら可愛いものだ。

そして僕は、彼女が一橋に入学する前、それももっと前、この小さな花を平行に見ていただろう幼少のころのことから話を聞くことにした。

 

サラ・ラシカ・ビンティ・アブドル・ラシッド

1991年マレーシア・クアラルンプール出身。一橋大学社会学部社会学科4年。林大樹ゼミナール所属。

マレーシアのなかでもマレー系には苗字がなく、代わりに父親の名前がつけられる。ラシカさんの場合は「サラ・ラシカ」が名前で、「アブドル・ラシッド」がお父さんの名前。間の「ビンティ」は「の娘」という意を示す。

日本語・マレー語・英語、すべてをネイティブレベルで話す。IT系企業に就職予定。

 

【インタビュアー】

長瀬 晴信(ながせ はるのぶ)

1990年神奈川県出身。一橋大学社会学部社会学科4年。林大樹ゼミナール所属。インタビュー団体Lien(リアン)代表。

 

★ラシカさんの記事は、3名のメンバーが書いております

同じ音源をもとに記事を作成していますが、執筆者によって内容・捉え方が異なっております。

①長瀬晴信(本記事) ②木村優志(青山学院大学2年) ③小澤泰山(東京学芸大学1年)

 

 

■「日本語しか喋れない。言葉が通じない」

 

―― ラシカって俺のなかでは、いつも笑顔のイメージなんだけど、小さい頃はどんな子だったの?

 

小さなころは男の子っぽい性格だったかな。4人兄弟の2人目で、下に妹が2人いるんだけど、お兄ちゃんといつも行動してた。

蚊帳みたいもののなかでお昼寝している妹を踏んづけたりして遊んでた。

そうするとお母さんがかまってくれて、楽しくて(笑)。

 

―― やっぱ元気だったんだね。幼い頃に日本にいたみたいだけどそれってなんでなの?

 

私の父は、マレーシアの大学で教授をしているんだけど、教授になる以前は大学でスタッフとして働いてたの。それで、教授になるために家族を連れて日本の広島大学へ留学したんだ。私が5歳から12歳の期間だった。

 

―― 友人がたくさんいるマレーシアから離れて日本に来て、いやじゃなかった?

 

当時は結構悩んでいましたね。日本の普通の保育園に通っていたから、小学校に入学するくらいまでには日本語も同世代の子たちと同じくらい話せるようになった。

だから自分は外見は違うけど、中身は日本の子と同じだと思ってました。

でも、突き詰めると違うんだなとも感じていて…。

 

―― それで苦い経験もあった?

 

それは中学1年生のときにまたマレーシアに帰ったときに一番感じた。私、しずかちゃんって呼ばれてからかわれてたの。

 

―― え?

 

戻ってきて入った学校の授業に全然ついていけなかったんだ。日本語しか分からなかったから。

ちょうど私の代から理科と数学の授業が英語で行われるようになったんだけど、日本の小学校では英語を全然学んでいなかった。だから英語は当然理解出来ないし、7年間も離れていたからマレー語自体も片言であまり喋れなくて。

それに加えて、私の中学校はたまたま宗教系の学校だったからアラビア語で行う授業もいくつかあった。

つまり、一度に3カ国語(英語・マレー語・アラビア語)の勉強をしなくてはいけなくて、劣等生だったの。日本ではずっとクラスの中では上のほうだったのに…

 

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―― 当時、そういう状況にあってどんなことを感じていたの?

 

日本で育った時は、「お前は日本人じゃない、外人だ」って言われていたのに、マレーシアに戻ってからも「お前は外人だ、しずかちゃんだ」って言われて、私のアイデンティティって何なんだろうってずっと考えてた。

 

―― 日本で感じたことをマレーシアでも感じていたんだ…

 

だからその時は大学では絶対に留学しようと考えてた。マレーシアはおいて出ていこうと思ってた。

 

でも、高校生になった頃にはマレーシアのことも好きになってたかな。

マレーシアの人って日本のことが大好きで、とりあえず日本のことを褒めようとする感があるの。けれど、私は自分のことを日本人でもあるって思ってる節もあるから、日本に対して正しくない理解をされるのがイヤで、「それはたまたまだよ」って言ったりもしてた。
そのときにマレーシアも捨てたもんじゃないって思ったし、盲目的に日本をあがめるのってなんなんだろうと感じた。自分のマレーシア人としてのプライドを感じた時でもあったかな。

 

―― 最終的に自分の根本の部分が晴れたというか、自分ってこういう風なんだって思えるようになったのはいつなの?

それはちょっと遅いんだけど、大学2年生のときかな。それまでは、日本人だから日本で育つ、マレーシア人だからマレーシアで育つといったアイデンティティがひとつしか無い人にしか出会わなかった。

で も私が大学入学とともに入った国際寮では本当に「色んな」人がいて。コロンビア人なのにオーストラリアで育ってオーストラリアから日本に留学してきて、 「出身はどこ」って聞いたら(コロンビア人なのに)「オーストラリアだよ」って言う人がいて。他にも色んなミックスなバックグラウンドを持っていて、一言 では語れないって言ってる子もいて。

そのような子たちに出会えた時に、「アイデンティティってひとつでなくていいんだな」って思った。自分のなかの多様性を受け入れられるようになったんだ。

 

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■日本人のココロを理解する

 

―― ちょっと時期が戻っちゃうんだけど、大学はどうやって選んだの?

 

マレーシアの国家統一試験も受けてたから、一応父がいる大学には入れることになってたんだけど、日本に留学する奨学金つきのオファーをもらえたからそっちにしたんだ。

 

―― なんで日本にしたの?

 

快適な暮らしをしながら4年間は過ごしたいと思ったから。

日本からマレーシアに戻ってきてやっぱり不便だと感じたんだよね。治安も悪いし、交通などのインフラの整備も進んでいない。

だから学問というよりかは、暮らしやすさで選んだかな。

あと日本を選んだもう一つの理由は、マレーシアの学生の多くがイギリス・アイルランド・オーストラリアといった旧イギリスの国に留学していたから、私はあえて違う国に行きたかったんだ。

 

―― 日本のなかでも一橋を選んだのは?

 

自分がいける一番高いレベルの大学だったから!

 

―― 一番を目指そうというのは国家的なものなのかな?それともラシカ自身のもの?

 

それは、個人的なものかな。

日本からマレーシアに帰ってきて一回挫折して、一番下にいた。いじめられたりけなされたりした。だから、見返したいという気持ちが強いんだと思う。

 

―― 一番を目指してやる、そういった思いを持っているなかで、いま自分はどんな位置にあると思う?見返せる位置になれたと思う?

 

なれたと思う。

学力的に一橋に入ることがマレーシア人にとって難しいという事実ももちろんだけど、

ただ日本語を話せるのではなくて、日本のココロを知っていることに自信があるから。

 

―― なんでそう思う?

 

緊張しないでしょ、わたしとしゃべって。外国人としゃべってるって思わないでしょ?

 

―― 確かにそれはすごいよね。

 

だからそういうことをこれからも活かしたいと思ってる。

私が日本のことを理解しているように、日本人もマレーシアへいい印象を抱いてもらいたい。

変な巻物かぶってる怖そうなイスラム教徒っていうイメージじゃなくて、本当はみんな優しいんだよってことを伝えたい。

それが、私が日本に来た使命なのかなと感じてる。

 

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■貢献

 

―― 自分のアイデンティティもつかめて、マレーシア人に対する印象を変えたいという想いも明確になった。でも、それを具現化する手段は無数にあるよね。さっき、 インタビューが始まる前に「がちがちの日系企業(財閥系IT系会社)にした」って言ってたけど、どのような考えでその選択に至ったんだろう。

 

快適な暮らしを求めて日本の大学に来たと言ったけど、日本で学生生活を送ってるうちにその意識が変わったの。

私1人だけが快適に暮らせればいいんじゃなくて、他のマレーシアの人も、さらにはマレーシア以外の他の地域の人にも快適な暮らしを提供する人になりたいと思うようになった。

快適な暮らしを提供することで、それを享受した地域の人が自分の地域のことを好きになってくれて、同時にそれを提供した日本を好きになってくれればいいなって思う。

だから日本で就職しようと思ったんだよね。

 

―― アイデンティティを克服したからこその選択だね。迷いはなかった?

 

東大の大学院に行こうかと思った時期もあったんだけど、今年の2月にマレーシアに帰って父と相談したんだ。そしたら「いまのチャンスを逃すのはもったいない。キャリアを試しなさい」って言われたんだよね。

 

―― じゃあ、お父さんの言葉が背中を押してくれたんだ。

 

私は父が大好きなの。人生、どんな道をとったとしても苦労することってあるじゃん。でも、父は決断したあとに「やっぱりこの道を選べばよかった」って絶対言わないの。決断の潔さと困難に直面してもそれを乗り越えようする精神力。

私も就職した後に、「院でだらだら学生生活続ければよかったかな」って思うこともあるだろうけど、父みたいに乗り切ろうと思う。

 

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―― 日本で就職するって決めても、そこからさらに自分の望む会社を選ぶ段階になるよね…10社くらいにエントリーしたらしいね。

 

私が会社を選ぶにあたって大事にしたことは二つで、一つは日本を代表する大企業であること。そしてもう一つは、日本から海外に行かせてくれる企業であること。

外資は日本支社的な役割が多くて、日本から海外に行くことが少ないと思ったのね。だから、日本から海外に出てNo.1になりたかった。

 

―― それであれば、やってることはあまり関係なかったと。

 

そうだね、文系の人の多くは営業になるじゃん。

だから、やってる事業内容は特段詳しくなくてもいいと思ったの。

なかでも、私はゼミでスマートシティについて学んで興味を持っていたから、ITインテグレータを選んだ。

 

―― 具体的にやってみたいことは?

 

人事部に配属される予定なんだけど、人事って採用だけではなくて教育制度や働きやすい環境を整備することも大事な仕事だと私は考えてるの。

だから日系企業が海外に進出する際に、現地の人に合う制度を作れば充実した会社生活が送れるし、その人自身の人生も絶対変わると思うのね。

そんな環境を提供してる企業が日本企業だったら、その人は日本が好きになると思うし、その土地でいい暮らしができたらその国のことも好きになると思う。

それって私のやりたいこととマッチするんだよね。

 

―― 日本とマレーシア両国のココロを知ってるラシカなら、そのような制度・環境も作っていけるのかもね。

それでは最後に、ラシカの最終的なゴールを聴かせて下さい。

 

将来的な夢はありきたりだけど、1人でも多くの人に貢献したいな。

貢献という形も、自分の周りの人はもちろん、マレーシアにも日本にも貢献したい。

 

―― ラシカにとって「貢献」とは?

 

人の心を動かすことだと思う。

 

私、色んな人に会いたいの。それは私と会うことによって、その人の心を少しでも動かせたらという想いがあるから。

今までもっていたステレオタイプを変えて、新しいことを考えていくきっかけになればってね。

 

だから、これからはもっと、人の心をどう動かせばいいかを学ばないとね。

 

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「1年生のときは、『外国人の方なのに日本語上手ですね。いつ日本に来たの?』って聞かれたら、自分が子供のときに日本にいたことを隠してた。でも、いま は受け入れて、人が聞いたらすぐに、『小さいときは日本に住んでいたよ』って言うのね。それが目に見える私の一番変わったところかな。」

笑顔で語ったラシカさん。

日本とマレーシア、両国で自分の異邦人性に悩み、それが故その国のココロに人一倍向き合ってきた。しかし、その苦労を感じさせないほど、彼女の表情は穏やかで明るかった。

そんな彼女だからこそ、いまもそしてこれからも、多くの人のココロを動かし続けるのかもしれない。

 

【文・写真…長瀬晴信】